こんぺいとう企画編集チームのスタッフが、こんなことを言っていた。「障害のあるライターさんの記事をディレクションしていて感じていたのですが、障害のある方が体調を崩すのは、3月と6月に多い印象があります」と。
言われてみて深くうなずいた。3月は年度の変わり目。生活のリズムも、人間関係も、気温も一気に動く時期。6月は梅雨。気圧と湿度が毎日のように乱高下する。どちらも共通しているのは「変化が重なる時期」だということだ。
そして、変わり目に身体がついていけなくなるのは、たぶん障害のあるなしに関係ない。程度の差こそあれ、環境の急変に自律神経が振り回されるのは、人間の身体の仕様なのだと思う。ただ、私のように自律神経に障害があると、その振れ幅が桁違いに大きくなるだけで。
というわけで今回は、頸髄を損傷した私が、梅雨から夏をどうやり過ごしているか、という話をしたい。ベースは私の身体の話だが、変わり目に弱い人にはどこか使える部分があるかもしれない。
梅雨から夏は、私のような頸髄損傷者にとって一年でいちばん身体がこたえる季節だ。前回の記事(豆塚理事長の一日 ──まったくキラキラしていない、地味な毎日)でも書いたが、私にとっていちばん厄介なのは、手足の麻痺そのものよりも、自律神経の障害のほうだ。血圧も、体温も、汗をかくということも、ふつうは身体が自動でやってくれることが、私の身体ではうまく働かない。その障害がもっとも牙をむくのが、まさに今の時期なのだ。
ただ、先に言っておきたい。私はこの季節を、ただ我慢してやり過ごしているわけではない。泥臭く戦術を立てて戦っている。そんな気分である。
なぜ夏がこんなにきついのか
人は暑いと汗をかき、その汗が蒸発するときに体温を下げる。当たり前のようでいて、頸髄を損傷した私の身体は、この「汗をかく」ができない。人間の熱放散の3割近くは発汗によるものだという。その3割を、私は丸ごと失っている。
だから扇風機の風も、私には涼しくない。汗が蒸発しないのだから当然だ。体温は外気にそのまま引っ張られ、暑い日には38度近くまで上がることもある。しかも厄介なのは、暑さに気づきにくいこと。汗をかかず、感覚も鈍いので、体温が上がっていても自覚がない。気づいたら危ない、という状態になりやすい。
喉が渇いたら飲む、暑いと感じたら冷やす。そんな普通の目安が、私には通用しない。感覚に頼れないぶん、先回りして、時間で区切って対処する。
空調は命綱
私にとって空調は、まさに命綱。
以前住んでいたのは、築50年を超えるコンクリート造のマンション。立地も間取りも最高だったのに、気密性が悪く、いかんせん空調の効きが悪かった。体温調節ができない私にとって、これは命に関わる問題だ。だから泣く泣く引っ越した。今は気密性の高い部屋で、エアコン一台で快適に過ごせている。そのエアコンも、ケチらずハイグレードなものを選んだ。極寒の地で使われるほど性能のいいダイキンの機種で、冷房もパワフル。私には贅沢品ではなく、医療機器に近い。
外出時は霧吹きと保冷剤が欠かせない。保冷剤は当てる場所が肝心で、首や太ももの付け根など、太い血管の通るところを冷やすと効率がいい。ただ霧吹きは、湿度の高い日には効かない。蒸発しなければただ濡れるだけ。梅雨どきの蒸し暑さが本当に手ごわいのは、そのせいだ。
冷やしすぎにも気づけない
夏の悩みは暑さだけではない。冷えすぎることもある。
体温が環境に左右されるとは、暑い方にも寒い方にも振れるということ。冷房の効いた部屋で、気づかぬうちに身体が冷えていく。ふと足を触ると、キンキンに冷たくて驚く。冷たいという感覚すら、私にはわからない。だから真夏でも上着は手放せない。
おまけに車椅子は、ベビーカーと同じで座る位置が低い。地面に近いぶん、夏は照り返しの熱を受けやすい。同じ部屋でも、立っている人と座っている私とでは、体感温度がまるで違う。だから私は、自分の感覚ではなく、温度計と時計を頼りにする。暑さを感じる前に冷やし、時間で区切って水を飲む。それしかない。
車椅子と雨
梅雨は梅雨で、別のつらさがある。
気圧が下がると、めまいとだるさ。これには五苓散という漢方がいくらか効く。水分の巡りを整える薬で、飲むと少し楽になる。とはいえ万能ではない。土砂降りの日は、白旗をあげる。といっても降伏ではなく、休戦と言いたい。
地味に大変なのが、車椅子と雨の相性の悪さ。片手で傘をさせば、もう片方だけではタイヤを漕げない。おまけに濡れたタイヤはリムが滑って、力が伝わらず漕げなくなる。押してもらえば、自分の足元と相手の背中が二人ぶんびしょ濡れになる。雨の日は、出かける前にすでに半分くらい消耗している。
水分も、本当はとにかく摂りたい。けれど排泄に障害があり、トイレに人一倍時間がかかるので、つい控えてしまう。若い頃は、水分を控えすぎて膀胱炎になることもしばしばだった。わかっているのに、できない。このあたりの折り合いはいまも私の課題だ。
これは敗北ではなく戦術だ
ここまで読むと、負けてばかりの話に聞こえたかもしれない。土砂降りの日は諦める、勝てない暑さの日は出ない、と。
でも、はっきり言っておきたい。私は「しんどいから諦めます」と言い訳をしているのではない。むしろ逆だ。
気圧や気温という、どうやっても勝てない相手を見極め、勝てる勝負にだけ体力を配分する。負ける戦いには出ない。その代わり、出られる日には確実に動けるよう準備を整える。これは敗北ではなく、戦術。撤退の見極めまで含めた、れっきとした作戦だ。
つまり私がやっているのは、かっこよく言うと、生き延びるためのロジスティクス。非効率な身体を、いかに効率よく動かすか。限られた体力という補給線を、どう守り、どこに投入するか。今日の気圧、何件動けるか、どこで休めば夜まで保つか。毎日それを見計らいながら生きている。
体調が不安定な時期は、気分もいっしょに落ちる。ほとんどセットだ。以前なら「気合が足りない」と自分を責めていた。でも今はしない。梅雨や夏にしんどくなるのは、私が弱いからではなく、身体が正直に季節へ反応しているから。それを責めるのは、お門違いというものだ。
弱いからこそ身につくスキル
養生は、技術だと思う。
身体が丈夫な人は、その日使える体力を細かく計算する必要がない。疲れたら寝て、回復すればまた動ける。けれどその人たちは、自分の身体と一日中交渉するスキルを身につける機会はないだろう。
私は身体が弱い。だからこそ、毎日その交渉をしている。健常者には必要のない、けれど私には欠かせないこの技術を、十数年かけて磨いてきた。弱さの裏返しではない。弱いからこそ手に入れた、れっきとした能力だ。いつかそれを、胸を張って誇れるようになりたい。
そして、これだけは言わせてほしい。私のこれは、ただ負けを受け入れているのとは違う。負ける日は潔く退く。でも退きながら、私はずっと反撃のタイミングをうかがっている。低気圧が抜けて、身体が軽くなる日。やられっぱなしで終わる気は、さらさらない。
負けを認めることと、戦うのをやめることは、別の話だ。退いて、温存して、勝てる瞬間に賭ける。泥臭くて、しぶとくて、ちょっと反骨的。これはきっと、新しい負けの美学。私は、そういう自分のやり方が、わりと気に入っている。
そして最後に。冒頭で編集チームのスタッフが言っていた「季節の変わり目のつらさ」は、きっと私だけのものではない。程度こそ違え、季節の変わり目に心身がしんどくなる人は、たくさんいるはずだ。だとしたら、勝てない日に無理をせず、勝てる日に賭けるというこのやり方は、案外いろんな人に効くのかもしれない。
ただ、健康であることが美徳とされる世の中で、この技術はなかなか評価されない。そのことは、また別の記事でちゃんと書きたいと思う。
※この記事は私個人の体験です。症状や対処の合う・合わないには大きな個人差があります。漢方や対策を試す際は、主治医にご相談ください。


