障がい者になる。その予感を、なんとなく感じていた。
「統合失調症」私の抱える障害の名前。もう10年以上付き合っている病気だ。
どうしてこの病気を発症することになったのか、今までの経緯を綴っていきたいと思う。
私は3人きょうだいの長女として産まれた。当時の風潮かはわからないが、女の子というだけで、祖母からは、「なんだ女か」と蔑まれていたようだ。しかし初孫なので、なんだかんだ可愛がってくれていた気がする。
両親は仲がとてつもなく悪かった。学校から帰るとほぼ毎日喧嘩していた。ぶっちゃけそんな家に帰りたいとは思えないので、友達の家にお邪魔することもしばしばあった、しかし、そんな友達の家も毎日行って良いわけではない。当時の私は安心できる居場所がないと感じていた。絵を描いている時間くらいしか、安らげる時間がなかった。
声が聞こえた

高校時代から幻聴に悩まされた(筆者作成)
最初の違和感は高校時代、バイト先のスーパーでの出来事だった。お客さんからの些細な一言で、レジで泣き出してしまった。その後から、夜眠れなくなり、周りから悪口や脅迫するような言葉が聞こえるようになった。幻聴である。学校では、仲の良かったクラスメイト達から、「こっちゃんを探せ、見つけてボコボコにしてやろう」という、あるはずのない声が私の耳に響いた。町を歩けば脅迫されているような声が聞こえ、夜は眠れず、食欲も減り、どんどん私は衰弱していった。
助けを求めた朝
これは普通じゃない。そんな日々が続いた朝方、学校へ行く前、私は母に「何かがおかしい、私普通じゃない、病院へ行きたい」と、日がさす窓辺で訴えた。母は「そうなんだね、辛かったね」と言った。その優しい顔を、今でも覚えている。当時通っていた高校の保健室の先生へ連絡し、病院を紹介してもらった。診断名は【統合失調症】だった。

当時はどうしていいかわからずふさぎ込んでいた(筆者制作)
治療と出会い
それから、高校を1ヶ月休学し、静かな場所にある親戚の家にお世話になった。親戚の家では今までの衰弱した心身を癒すように、1日の半分は寝て過ごしていたと思う。
そのほかの時間は家事を手伝っていたが、上手くできず従姉妹と喧嘩することもあった。
1ヶ月の静養を経て高校に復学した。とはいえ、まだ幻聴が完全に治っていない中でたくさんの人がいるいつもの教室に戻るのが難しかったことや、体力面、学校側の配慮等様々な理由があり、その後は保健室登校となった。仲の良かった友達とは別の教室で過ごすこととなり、寂しさと同時に、クラスメイトと少し距離を置いたことへの安堵を覚えた。なんとか高校を卒業することはできたが、進学はままならなかった。
1年後、浪人を経て専門学校へ入学するも、新しい環境の負担もあり、症状が再燃。1ヶ月もせず辞めてしまった。病院も変え、そこで出会ったデイケアの先生や主治医のもと、服薬、入院、リハビリをしながら、就労施設やアルバイトを点々としながら生きていた。
今、大切にしていること
現在はフリーランスのイラストレーターとして仕事を受けつつ、B型作業所に通いながら生活している。統合失調症を抱えながらの生活で大事にしていることは、「食う」「寝る」「遊ぶ」ことだ。病気の再燃防止に大事なことである。食べて寝る、時々遊ぶ(描く)ことでここ5年くらいは安定している。もちろん浮き沈みはあるが、最初の頃と比べると、健常者と間違えられるくらいには、寛解してきた。
あとは、人に相談できる環境も私には必要な要素だ。悩みやストレスを解消するため、たまに親戚や相談支援員さん、作業所の職員さんに相談することもある。
今までいろいろあったが、生きる上で変わらなかったのは「絵を描きたい」気持ちだ。なんだかんだ、絵を描くことは続けてきた。その経験が今、私を生かしている。
障害があっても
統合失調症と共に生きること。それは、私がこれからも生きていく中で向き合い続けていくテーマだ。しかし、今はそんなに悲観してはいない。この障がいがあることで気づけたこともたくさんある。大事なのはこの病気を抱えた上でどう在っていくか、生きていくかだ。課題はあるが、それでも私は元気になってきた。
寛解まで時間がかかる人もいれば、そうじゃない人もいる。症状の具合は様々だが、人として生きる上での必要最低限のこと、つまり食べて寝る、時々働いたり遊んだりすることで、少しずつ寛解に近づくと思う。大事なのは焦らないことだ。焦らず、自分の道を切り開いていって欲しい。


