最近、「アテンション・デトックス」という言葉をよく聞くようになった。SNSの注目――する側もされる側も――に疲れた人が、あえてスマホから離れて休む。そういう動きを指すらしい。
この言葉を、私は他人事として聞けなかった。
NPO法人の理事長としてSNSに投稿するのは、ものすごく神経を使う。これは誰にどう受け取られるか、傷つく人はいないか、立場として不用意ではないか。考え始めるとキリがない。投稿したらしたで、反応がつい気になる。常に読む人を意識して文章を書いているうちに、私はだんだん苦しくなってしまった。言葉を仕事にしている人間が、言葉を書くことに疲れていく。なかなか皮肉な事態だ。
だから、誰にも見せない日記帳を開いた
それであるとき、あえて手書きで、お気に入りのデザインの日記帳に言葉を綴るようになった。
そこに書くのは、ネガティブな思考、誰かへのもやもや、口に出すのは恥ずかしい欲望や欲求。読み返せば駄文も駄文で、まったく生産性のない文章だ。でも、それでいい。たくさんシールを貼って、カラフルなペンでデコレーションする。誰も見ないのだから、すべて自己満足。かわいく仕上がってニヤニヤしようが、なんだかうまくいかなかろうが、それはそれ。とにかく直感を大切にする。
子どもが画用紙にクレヨンで勢いよく描くような、あの無邪気さを取り戻したかったのだと思う。
書くという行為は日記もSNSも同じなのに、後者にだけ「他者の目」という重力がかかっている。私たちが疲れているのは、何かを「すること」そのものではなく、それを誰かに見せて評価される回路に乗せてしまうことなのだ。日記帳には、その重力がない。
SNSはコインゲームに似ている
もうひとつ、腑に落ちたことがある。SNSはコインゲームみたいなものだ、と思ったら、自分がだらだら見続けてしまう理由がなんとなくわかった。
見たくて見ているわけではない。次のスクロールで何かいいことがあるかもしれない、と脳がついつい欲してしまう。報酬がいつ来るかわからないから、人はレバーを引き続ける。タイムラインを設計する人たちは、この心理をよく知っている。
だから私は、「見すぎるのは自制心が足りないからだ」という説教を信じていない。これは個人の意思の問題ではなく、構造の問題だ。何千人ものエンジニアが、あなたの注意を一秒でも長く引き止めるために働いている。その相手に意思の力だけで挑むのは、フェアな勝負ではない。離れられない自分を、責めなくていい。
それでも「デトックス」という言葉は疑っておく
ただ、「アテンション・デトックス」という言葉そのものには、少しだけ引っかかっている。
デトックスとは本来、毒を抜くことだ。つまりこの言い方は、また働くために、また誰かの注目に戻るために、いったん毒を抜いておく――そういう前提を、こっそり含んでいる気がする。休むことすら、次に備えるための準備にされてしまう。
でも私が日記帳に逃げたのは、戻るためではなかった。生産性なんてどうでもいい、誰の役にも立たない自分だけの時間が、ただ欲しかったのだ。デトックスでも充電でもなく、ただの無駄。その無駄を、私は誰かのために手放したくない。
それに私は車椅子で暮らしていて、移動も連絡も仕事もスマホなしには成り立たない。完全に離れるなんて、最初から無理なのだ。だからやめなくていい。ただ、スマホを一旦置く場所を決める。
一日のうちに、誰の視界からも消える時間をつくる。いいねもつかず、誰にも見られない言葉を、自分のためだけに書く。生産性も、評価も、誰かの目も置いていって、ただクレヨンを握っていたころの自分に戻る時間。
子どもの頃の時間って、贅沢だったんだな。
うまく描けたかどうかなんて誰も気にしない。描いたものを誰かに見せて評価される、なんて発想すらなかった。ただ手を動かすことが楽しくて、それで完結していた。あの感じを、今は数百円のシールとノートで取り戻している。


