フーセン
フーセンが
だんだん
しぼんでいく
(「〈新編〉ぼくは12歳」(岡真史/ちくま文庫)p82より引用)
12歳の少年が遺した3行の詩に、高校1年生の私は衝撃を受けた。「風船」といえば幸せや楽しさのイメージが強く、子どもが無邪気に喜ぶもののひとつだが、「しぼむ」という、いわば「終わり」や「死」につながる側面に目を向けたこの少年に、強い興味を持った。
「ぼくは12歳」というタイトルがつけられたその本は、12歳で自ら命を絶った岡真史という少年の遺稿をまとめたものだ。小学生らしい無邪気さの隙間から、時折ぞっとするほど鋭く、俯瞰的な顔がのぞく。みずみずしい詩の数々からは、「早く大人になりたい」と背伸びをするような、心の成熟に体の成長が追いつかずどこかちぐはぐさを抱えているような、繊細な印象を持った。
読後、さまざまな感情を抱いた私は、母にその感想を話そうとした。「12歳で自殺してしまった男の子の詩なんだけど」と口にした途端、母は「自殺した人の本なんて読むものではありません」と強い口調で遮り、この話は終わりとばかりに背を向けた。それっきり、その詩集の話は二度としなかった。
当時の私には、母がなぜあれほど怒ったのか理解できなかった。自分の感動そのものを否定されたような気がしてひどくショックを受けたことは、今も忘れられない。
この記事を書くにあたって、母のあの強い拒絶の理由をもう一度考えてみた。
「自殺で亡くなった方の作品は読むべきではない」――その言葉の裏には、自ら命を絶った子どもの言葉に我が子が深く心を動かされることに対する、母なりの深い心配があったのかもしれないと、今になって思っている。
「ウェルテル効果」という懸念:なぜ人は「影響」を恐れるのか
なぜ、私たちは「自殺した人の言葉」に触れることに、これほどまでに慎重になるのだろうか。そこには、社会や親が抱く「影響」への懸念がある。
心理学には「ウェルテル効果」と呼ばれる現象があるそうだ。有名人や知人の自殺に関する報道や、自殺を扱った作品に触発され、模倣的な自殺が増加する傾向を指すという。
自殺が美化されたり、具体的な方法が詳細に描写されたりすることで、精神的に不安定な状態にある人々に、その選択肢が「あり得るもの」として認識されてしまうリスクが指摘されている。
このような現象を考えると、親が子どもをそうした情報から遠ざけたいと願うのはごく自然なことだ。特に多感な時期にある子どもが、死という重いテーマに深く触れることで、心に悪影響を及ぼすことを恐れるのは、ある意味で当然の親心の表れであるともいえる。
また、社会全体で「自殺」がタブー視され、語ることさえも避けられる傾向があることも、その背景にはあるだろう。私の母も、当時の社会通念や、我が子を守りたい心情から、懸念を抱いたのかもしれない。
自殺者の言葉に触れることは、本当に危険なのか?
では、「自殺した人の言葉」に触れることは、本当に危険なのだろうか?
私自身の経験を振り返ると、「ぼくは12歳」という作品は、私にとって自殺を促すものではなかった。むしろ、12歳の少年の感受性の豊かさや、その裏に隠された「生きづらさ」に触れることで、人の心の奥底にある感情や、言葉にならない苦しみに深く思いを馳せるきっかけとなった。遺された数々の詩からは、子どもらしい純粋さと、どこか大人びた哀愁と、世界に対する真摯なまなざしが感じられた。それは、1人の人間が確かに生きていたという、美しくて確固たる「証」だった。
言葉は、たしかに人々に大きな影響を与える。希望や喜びを与えることもあれば、絶望や悲しみをもたらすこともあるだろう。
しかし、言葉が持つ影響は、受け止める側の精神状態や、その言葉がどのように提示されるか、そしてその後にどのような対話が生まれるかによって大きく変わるのではないだろうか。自殺者が遺した言葉や自殺を扱った作品が、単に悲劇として消費されるのではなく、その背景にある社会的な問題や個人の苦悩について深く考えるきっかけとなるのであれば、それは一概に排除されるべき危険なものとは言いきれないのではないか。
詩を通じて、対話と理解を深めたかった
「自殺した人の言葉」を、ただ「触れてはいけないもの」として排除するだけでは、その背景にある「生きづらさ」や「苦しみ」を見過ごしてしまうことになりかねない。もちろん、無責任な情報の拡散や、自殺を安易に美化する表現は避けるべきだ。しかし、適切な形で、そして真摯な姿勢で、そうした言葉や経験に触れることは、私たちが多様な「生きづらさ」を理解し、共感する上で、重要な一歩となるはずだ。
そう思うと、あの日、私はあの本を通じて、詩の美しさだけでなく、彼の選んだ「自殺」という選択肢について、また「死」や「生きづらさ」について、母と対話したかったのかもしれない。そして、その「対話」そのものを拒絶されたように感じたから、深く傷ついたのではないだろうか。
岡真史という12歳の少年が遺した「フーセンが/だんだん/しぼんでいく」というたった3行の詩は、今でも私の心に深く刻まれている。それは彼が確かに生きて、感じて、言葉にしたものだ。その命の重みを、誰かと分かち合えたなら。そんな対話の場が、もう少しあったなら。
もしあなたが、家族や友人から「こんな本を読んだ」「こんなことを考えた」と話しかけられたとき、最初の反応で扉を閉ざしてしまう前に、なぜそれに心を動かされたのか、何を感じたのか、まずは聞いてみてほしい。そして、もしあなた自身が誰かに話したいことがあるなら、どうか恐れずに、声をかけてみてほしい。
対話は、いつでも、どこからでも始められる。たとえ完璧な答えが見つからなくても、対話を通じてお互いの世界は確実に広がっていく。