「普通」に対して疑問を持つ作者(作者作成)
「障がいのことを言われるまで気づかなかった」「障がいのことは気にしなくていいんじゃない」「普通に見えるよ」私は、そう言われるくらいに統合失調症という病気が寛解した。今では前向きに捉えているその言葉が、最初はなんだか腑に落ちなかった。「ふつう」って何だろう…?
あの頃の「普通」への渇望、憧れ
統合失調症の発症当時は、普通に飢えていた。普通の体型、普通の生活、普通の家族、普通の働き方…。あげ出したらキリがないほどに「普通」という言葉を求めていた。
現在の私は、治療のための服薬の副作用で、痩せていた頃から20kg近くも体重が増加してしまった。言わばぽっちゃり体型だ。学生時代は痩せていたので、理由を知らない人からは、「デブ」「太ったね」と言われることも増えた。
夜はなかなか寝付けず、一睡もできないまま朝を迎えることもあった。身体は当然きついままである。そんな様子を見ている家族は私のことを腫れもの扱いすることもあった。障がいがあるとオープンにして入社したコンビニからは、障がいを理由に解雇された。
当時は、みんなきっと私が「普通」じゃないから、近寄らないんだ、傷つけてくるんだと思っていた。
意固地になっていた。「普通」になりたい。「普通」が遠ければ遠いほど、それが唯一の正解に見えていた。
寛解していく過程での揺らぎ
症状が少しずつ落ち着いてきた頃、私は奇妙な感覚に気づいた。「普通」に近づいているはずなのに、なぜかもっと苦しい気がする。
日中のリハビリと薬の服薬で、眠れる夜が増えた。外に出られる日も増えた。客観的には「回復している」はずだった。周りの人たちも、「体調はどう?」「無理しないでね」と気にかけてくれていた。その優しさは本物だったと思う。
それなのに、なぜか苦しかった。
心配してもらえることが、じわじわと重くのしかかることがあった。「大丈夫?」と聞かれるたびに、大丈夫じゃない自分を突きつけられるような気がした。優しい言葉が、回復できていない自分を映す鏡になっていた。悪意なんてどこにもない。だからこそ、苦しいとも言えなかった。
「普通」のふりをすることに、思った以上のエネルギーを使っていた。症状と戦っていた頃とは別種の消耗だった。体調が悪い日も、波がある日も、気にかけてもらえている手前、「今日はしんどい」と言い出しにくかった。寛解とはゼロか百かではなく、波を繰り返しながら少しずつ安定していくものなのに、そのグラデーションをうまく伝えられないまま、ひとりで抱えていた。
そのとき初めて気づいた。私が目指していた「普通」は、ゴールではなかった。寛解は「普通になること」とイコールではない。ふつうに近づいたとしても、私の中には病気と過ごした時間が確かにある。それはなかったことにはならない。「普通」という言葉の輪郭が、少しずつぼやけはじめた
「普通」を疑いはじめる
ある日、ふと考えた。「普通」って、そもそも誰が決めたのだろう。
痩せているのが普通。毎日働けるのが普通。夜ちゃんと眠れるのがふつう。私が「普通じゃない」と感じていたものを並べてみると、それらはすべて、誰かが決めた「平均値」に過ぎなかった。
健常者と呼ばれる人たちも、よく聞けばみんなどこかで「普通じゃない」と感じている。眠れない夜がある人、体型にコンプレックスを抱えている人、職場に馴染めない人。「普通」という枠にすっぽり収まっている人など、どこにもいないのかもしれない。
それなのに私はずっと、実体のない「普通」を追いかけていた。他人の目に映る「普通」を正解だと信じて、それに届かない自分を責め続けていた。
「普通に見えるよ」と言われたとき、最初に腑に落ちなかった理由が、ようやくわかった気がした。それは、「あなたは基準を満たしている」という評価の言葉だったから。でも私は、誰かの基準に合わせるために生きてきたわけじゃない。そのことに、静かに、でも確かに気づいた。
自分なりの「ふつう」を見つけるまで
比較する相手が変わったのは、いつ頃だっただろう。
世間の「普通」と自分を比べることをやめて、「昨日の自分」と今日の自分を見るようになっていた。昨日より少し眠れた。今日は外に出られた。先週よりも、人と話すのが怖くなくなった。小さな変化を、自分の言葉で意味づけできるようになっていった。
「健常者と間違えられる」ことは、もうゴールではなくなっていた。他人に「普通に見える」かどうかより、自分が安定していられるかどうかの方が、ずっと大事だと思えるようになったからだ。
私の「ふつう」は、薬を飲みながら、波がありながら、それでも自分のペースで生活できている状態のことだ。それは誰かが設定した平均値には届かないかもしれない。でも、私にとってはそれが「ふつう」だ。
「普通に見えるよ」という言葉を、今では前向きに受け取れる。それはもう、誰かの基準と自分を比べているからではない。自分の「ふつう」を持てたから、他人の言葉に揺さぶられなくなったのだと思う。
最後に
「ふつう」という言葉を手放したわけではない。ただ、定義を自分の手に取り戻した。
私の「ふつう」は、私が決めていい。誰かの平均値に合わせることが、生きることではないから。体型も、働き方も、眠り方も、回復のペースも。私のそれが、私の「ふつう」でいい。「ふつう」に振り回されるのではなく、「私らしく」を大事にして生きたい。
私はまだ、薬を飲んでいる。波がある日もある。それでも今日、こうして言葉を書いている。絵を描いている。これが私の「ふつう」だ。


