トラウマ・愛着

第一歩は「完全な理解者はいない」と知ること…複雑PTSD当事者が気づいた”他人のための人生”をやめる方法

複雑性PTSDとは、長期にわたる虐待やDVなどのトラウマ体験から感情の調節が困難になったり、対人関係に支障をきたしたりすることがある精神障害だ。

私の場合は自己肯定感が低く、「自分のために生きる」という言葉を見聞きするたび、困惑した。だって、生きていてもいいような気がするのは、いつも誰かの役に立てた時だけだったから。

そんな価値観が揺らいだのは、カウンセリングに通い始めて間もない頃のこと。カウンセラーから言われた“ある言葉”から気づきを得て、生き方を見つめなおすようになった。

心の傷をすべて包み込んでくれる「理解者」を求めた日々

私は両親から食事やお小遣いなど、物質的なケアはしてもらえていたものの、感情面のケアはされずに育った。泣いている理由を聞かれたことは、ほぼない。むしろ、私が母の愚痴を聞いてメンタルケアする、逆転した親子関係だった。

だからだろうか。中学生の頃から、いま感じている苦しさや悲しさをひたすら聞いてくれる人をメル友掲示板で探すようになった。当時は今ほど、未成年者の出会い系サイトの利用に関する規制が整っておらず、学生の私でも簡単に利用できた。

募集をすると、毎回200人くらいの男性からメールが来る。その現象は、いま冷静に客観視すると恐ろしいが、当時の私は嬉しかった。その1通1通が「必要とされている証」のように思えたからだ。

私は1日に何回もメル友募集を繰り返して、苦しい時に電話やメールができる人を携帯の電話帳に”補充”し続けた。「今日は、父から○○と言われて傷ついた」「いま過呼吸で苦しい」そんな悲しみを、感じたその瞬間に吐き出せる相手がたくさん欲しかった。

だから、瞬時に返信のない相手は、すぐに携帯の電話帳から削除した。いまこの瞬間に感じている苦しみを聞いてくれない人はいらなかったからだ。

そうやって人間の取捨選択を行いながら、願っていた。私が感じてきた苦しみや悲しみの全部を受け止めて、そばにい続けてくれる人がいつか現れますように…と。

カウンセラーに言われた”ある言葉”にハっとさせられて…

だが、メールの外である「対面での対人関係」は、私にとって難しいものだった。自分の意思を押し殺すことが当たり前の家庭で育ったため、「話し合い」の仕方が分からず、恋人ができても関係性は歪に。私が下の立場である”上下関係”になるか、過度に相手に依存するかのどちらかになる。

そして、対等な関係性を築くことができないからこそ、「今度こそ、私を完璧に理解してくれる人と出会いたい」という気持ちが強まっていった。例えるなら、白馬の王子様を待つような気分。「絶対的な理解者」が欲しかった。

そんな祈りにも似た願いを持ったまま、私は死にたい気持ちに勝てなくなり、カウンセリングに通い始める。通院し始めて、1~2ヶ月ほど経った頃だろうか。私はカウンセリング時に、ずっと抱えてきた「人への渇望感」を打ち明けた。

「自分の全部を分かってほしいっていう気持ちがずっと消えなくて。この世のどこかに、そういう人がいるんじゃないかって期待して探したくなるんです」

多分、そんなようなことを言った気がする。すると、カウンセラーの返答は意外なものだった。

「苦しいし、悲しいけど、そういう人はいないと思ったほうがいいかもしれない。私も日常の中だと傷つけちゃうといけないから、ここまで深く人の心に入り込まないようにしてるから」

この言葉を聞いた時、私は今まで求めていた“理想の人”がいないことを認めないといけないことが苦しくて、わんわん泣いた。この世は、あまりにも残酷だ。だったら、私はどう生きていけばいいのだろう。誰が私を支えてくれるのだろう。そう思った。

だが、カウンセリングを続ける中で心境に変化が起きる。長年追い求めていた”理想の人”がいないと言われて、気持ちに少し区切りがついたのだろう。だったら、自分はどう生きていけばいいのか、誰かにすがりたくなった時はどうすればいいのだろうと「この先の生き方」を考えるようになったのだ。

「完全な理解者」はいないと知って他人との向き合い方も変化

「私を完全に理解し、支え続けてくれる人はいない」という気づきは、人との関わり方にも大きな影響を与えた。

それまで私は姉から送られてくる夫の愚痴LINEに毎回、丁寧に返信し、自分の話を全くせずに友人の相談を聞いていた。10代の頃からずっと、メル友以外の前では「聞き役」に徹してきたのだ。

それが自分の役目だと思っていたし、「ありがとう」や「楽になったよ」と言われると、自分という人間が認められたような気がして安心した。だから、深夜でも体調不良の時でも常に他人を優先した。

だが、カウンセラーからの言葉を機に「自分の完全な理解者はいない」と知ったことで、「私もいくら頑張ったところで、誰かの完全な理解者にはなれないのでは?」と思うようになった。

実際、どれだけ親身に相談を聞いても姉からは毎回、似たような愚痴が送られてきて、「前も同じようなアドバイスしたのに…」とモヤモヤしていた。友人も、相談したいことがある時だけ私に連絡をしてきているのは明らかだった。

そういう現実から目を背けてまで「誰かの理解者になりたい」と頑張ってきた理由は、誰かから必要とされないと生きていてはいけないような気がしたからだ。

その背景には、自分が先天性心疾患であったことも大きく関係している。私は同じ病気を持つ人の中では予後が良く、長生きだ。だから、「あなたが生きていることが希望になります」と言ってもらえることも少なくない。

その言葉は長らく自分の支えになっていたが、カウンセリングが進むにつれ、自分がしてきた捉え方に違和感を覚えるようになった。

私は、これからもずっと”誰かの希望”であるために生きていくのだろうか。もしかしたら、誰の希望にならなくても生きていていいんじゃないか。

そう気づいた時、涙がこぼれた。どれだけの間、私は「他人のための人生」を生きてきたのだろうか。私の命は、もっと自由で奔放でもよかったのだ。

人は自分しか救えず、「他人の人生」は抱えきれない

心のプロであるカウンセラーですら、クライアントの傷を癒すには数年の月日が必要だ。だったら、一般人である私がどれだけもがいても、人の心は救えないのだろうな。

他人との向き合い方を考える中で、そんな結論に達した私はいくつかのマイルールを決め、身内や友人との付き合い方を少しずつ変えていった。

・相談を聞く時は自分の心身の状態やスケジュールを優先する
・あまりにも相談事が深刻な場合や同じ相談事が繰り返される場合は「一度、プロに相談してみたら?」とカウンセリングを勧める
・LINEの返信は自分のペースで。「ドライヤーが終わったら」や「この動画を見終えたら」など、延々と相手の話に付き合わないように自己防衛する

突然の方向転換は正直、怖かった。周囲から、どう思われるだろう。そんな不安も募った。

最初の頃は、やはり相手も驚いたのだろう。連絡頻度がより増える人もいたし、「最近、返信こないけど」とストレートに不満を伝えて来る人もいた。そうした相手の反応に、私はかつての自分を見たような気がした。誰かにすがらないと不安で怖かった、あの頃の自分だ。

その恐怖や不安感を知っているからこそ、人との間に境界線を引くことは辛かった。だが、そうして、いわゆる「自分軸の暮らし」を続けていくと、他人の感情や問題に振り回されて疲弊することが減っていった。

また、そうした生活を続ける中で、自分の傷の受け止め方も変わっていった。ずっと「誰かに理解してもらいたい」と思っていたけれど、自分の痛みを一番理解できるのは結局、自分自身でしかないと気づいたのだ。

誰かに寄りかかったり、誰かからかけてもらった優しい言葉にすがって生きるのではなく、自分で自分の傷を撫でて、今まで泣けなかった分、一緒に泣いてあげたい。そう思うようになった。

私と同じ複雑性PTSDではなくとも、人に尽くし、誰かのための人生を生きている人は意外と多いように思う。だが、たとえ、誰かの役に立てなくても、褒められなくても、その人の命の価値や重さは変わらない。

いままさに誰かの人生に併走している人は、その優しさを少しだけ自分の心に向けてみてほしい。

ABOUT ME
単心室・単心房の先天性心疾患者。フリーライターとして、大手出版社のウェブメディアで生きづらさ・障害に着目した取材記事を執筆中。モットーは、できるかぎりそのままの温度で取材対象者の心を伝えること。私生活では猫の下僕。